#2 初舞台(マンハント)

1 行動派探偵小説史

1 〈1922〜1932〉悪徳の世界との対決

 

20年代の〝新しい波〟

 

 技巧をこらした奇々怪々なトリック、犯人・探偵ともに人智を越えた頭脳の持主がおたがいに云わず語らず腹芸をしあって、当人にはとっくに分っているのに、おしまいのページになるまでタネあかしをしない――いわゆる本格派、謎ときパズルふうの探偵小説は、まことにのどかな、うき世ばなれのした娯楽ではありますが、現実社会の苛酷さ・みにくさがひしひしと私達をとりまいている時には、いささか、そらぞらしく感じられるのも無理ないことでしょう。

 1920年代のアメリカに、行動派探偵小説という〝新しい波〟が起ったのも、日本のミステリィ(*1)文壇に松本清張や水上勉が喝采をあびて登場したのと事情を同じくしているようです。

 それは、行動派探偵小説が既成の謎とき本格派に挑戦を試みたというより、むしろ、それらの作品は社会の悪徳に敢然と立ち向っていった作家達の良心に従って書かれたものだと考えるほうがよいかもしれません。

 金銭欲、物欲、色欲があるかぎり、いつの世にも、いつの時代にも、汚職官吏や悪徳警官や、街のボスは消えてなくなりはしません。

 しかし、良い意味のアメリカ人魂はけっして〝長いものにはまかれろ〟という考え方を潔ぎよしとしないところにあったようです。

 醜い現実を見て見ぬふりができず、赤裸々な社会をあるがままに描こうという強い決断と新しい使命意識が、行動派探偵小説という新しい型の作品を生みだしたのです。

 私たちみんなが知っているように、殺人は華やかな上流社会のパーティーより、薄汚れた下町の暗い横丁でのほうが、ずっと起りやすいのです。殺人や強盗はいつも、みじめなうちひしがれた人たちの間で起るのです。それは今も昔も変りないでしょう。

 新しく登場した作家たちの作中人物は、私たちと同じように欲望に憑かれ、考え、行動する、ごく身近なあたりまえの人間だったのです。

 もう一つ、探偵小説を従来の有閑階級の慰みものの地位から、広く大衆のものへと押しひろげる力となったものがありました。

 それは、第一次大戦(1914〜1918)のあと、パルプ・マガジンとよばれる粗悪な紙をつかった安っぽい雑誌がアメリカで大流行したことです。これについては後で述べますが、食物と同様に活宇にも飢えていた戦後を記憶している私たちには、よくわかる気持です。

 

禁洒法とギャングの抬頭

 

 当時アメリカには、史上最悪の法律と呼ばれる禁酒法(1920〜1933)がしかれていました。

 アルコール類の醸造・販売をいっさい禁止するという法律なのですから、まったく最悪もいいところですね。味もソッケもなくなった世の中をかこつ飲んべえ達の足もとにつけこみ、法の目をくぐって暗躍しはじめたのが大がかりな酒類密造・密売人でした。

 ギャング団と手をにぎり、悪徳政治家を仲間に引き入れて、大規模な組織にふくれあがった彼等は、アメリカ史の一大汚点ともいうべき〝荒れ狂う20年代〟をひき起しました。

 そしてまた、そういった悪の巣の中心として有名なのが、シカゴ市でした。

〝シカゴはおれの繩張りだ!〟と豪語したアル・カポネは年収一億ドル、700人以上の部下を牛耳っていました。

 ハードボイルド精神のはじまりといわれるアーネスト・ヘミングウェイの、初期の短篇『殺人者』(1927)に次のような会話があります。

 

「やっこさん、殺されるってことは百も承知らしいんだ」

「それで」

「なのに、何にもしようとしないんだ」

「じゃ殺されちまうぜ」  

「たぶんね」

「きっとシカゴで何かゴタゴタを起したんだろうよ」

「たぶんね」

 

 片いなかの安レストランでも、シカゴといえばすぐに悪を連想させる響きを持っていたのです。

 どうにもならない〝悪〟がこの世に存在していることを多くの人たちは認めていました。

 文中の「シカゴで何かゴタゴタを……」という一行をぐっと引き伸ばして出来あがったのが、バート・ランカスター主演の同題名の映画ですが、ごらんになった方も多いことでしょう。

 当時の社会風俗やギャング団の生態は、最近あいついで実録もの映画が公開されたのでぼくたちにも、すっかりおなじみになってしまったようです。ジョン・ディリンジャー/ジョン・ケリイ/バーカー=カーピス・ギャング/プリティーボーイ・フロイド/ベビーフェイス・ネルソンなどなど……。禁酒法が生んだ悪の芽は、都会だけでなくアメリカ全土にはびこり、根をはってゆきました。

 それに対処するために、1924年、フーバー局長をむかえて強化されたF・B・I(連邦検察局)のGメンの活躍は、これも映画『連邦警察』でごぞんじのとおり。

 このGメンによって射殺されるか、逮捕されて死刑にされるか、ギャング達の運命は、禁酒法が解かれた一、二年後に、みな同じようなコースをたどることになりました。

 ただ一人の例外はアル・カポネです。

 酒類の密造・密売・もぐり酒場・賭博場から、はては淫売屋まで、明るいネオンの蔭で、なかば公然と繁栄していた悪の巣は、喜劇映画『お熱いのがお好き』にも出てきました。

 大物中の大物アル・カポネは、金力にものをいわせて市政を握り、政界、司法当局までがっちりと買収していたので、Gメンの追及はさけられましたが、脱税取締官Tメンによって検挙され、しかし死刑は免れました。

 古くは、名優ポール・ムニ、最近では、ロッド・スタイガー/ネヴィル・ブランドによって演じられたこのスカーフェイス・カポネは第二次大戦後まで生きのび、1947年、ベッドの上で最後をとげたという説と、刑務所で囚人達に殺されたという説があります。

 

バーネットの処女作

 

 話が映画のことばかりになってしまったので、このへんで、日本ではあまり知られていない作家ですが、W・R・バーネットのことに触れてみることにしましょう。

 バーネットは古くから暗黒街ものや西部劇を書いているアメリカの大衆作家で、《マンハント》日本語版にも短篇が一つ訳されています。(昭和35年5月号「消えてなくなれ」)

 『アスファルト・ジャングル』という作品を書いた人で、映画関係の仕事もやっています。

 

一九二八年の冬。寒くてゆううつなシカゴ市の午後。

街には粉雪が舞っていた。

くたびれたオーバをひっかけ、ぶらさがりものの背広の懐中には五ドルも残っていなかった。

ノースサイドきっての安食堂に向って歩いていた私は、その時ほど心がはずんでいる時はなかった。

私の最初の作品『小さな帝王』(*2)のゲラ刷りが、ニューヨークから届いたところだったからだ。

この作品を書き上げるまでの私の苦しかった生活。

私は今でも、安ホテルで過ごしたシカゴの第一夜のことを憶えている。

私は寝入りばなを、ドカンという爆発音でたたき起された。

窓がガタガタ鳴り、カーテンが荒々しく舞い、ベッドの脚が私をほおりだすようにガタついた。

続いて二度爆発が起った。

下に降りて受付の男にわけを尋ねたが「どうせギャング達の〝でいり〟でしょうよ」とすました顔で、とりあってもくれなかった。

翌朝、パイナップル(爆弾)でコナゴナになっているガレージのそばに行って見たが、まわりの人たちも、「よくあることさ」というだけだった。

 

 これは、バーネットが『小さな帝王』(1929)の再版につけた序文の一節ですが、暴力と死と破壊が、日常茶飯事のごとくに考えられていた20年代のシカゴの様子がうかがわれるようです。

 シカゴの街の中で苦しい生活を過ごしながら、実際に見たり感じたりしたことを、ギャングスターの側から、ちょうど現代のハル・エルスンがチンピラ族の言葉を使うように、ギャングの話し言葉を思い切って使って書かれたのがこの作品だったのです。

 『小さな帝王』は、大きな成功を収め、バーネットの作家としての地位を確かなものにしました。

 

《ブラック・マスク》創刊

 

 ヘミングウェイと、W・R・バーネットの二作家のことをお話ししましたが、行動派探偵小説の生れたころ、忘れることのできないのは、ダシェル・ハメット(*3)を中心とした〈ブラック・マスク〉誌の作家群のことです。

 前にも述べましたが、当時氾濫していた各種の雑誌は従来の高級読者の顔をしかめさせるようなものだったとはいえ、雑草のように根強く生きのびて行く確かな力を秘めていたのです。

 最近、書店やスタンドで見うける〝お色気と暴力でいっぱい〟のペイパー・バック本(*4)の先祖のようなこの種の雑誌は、けばけばしい表紙とオーバーなキャッチ・フレーズで飾られていましたが、チャンドラーが指摘しているように、確かにその中には人の心に強く訴えかける真実性があったのです。

〈ブラック・マスク〉誌は、1922年に、ジョン・デイリという人を初代の編集長に迎えて発足しました。(*5)

 デイリは、当時の代表的な作家の一人で、短篇も長篇("White Circle" 1926)も書く人でした。その他この雑誌には、ハメットやE・S・ガードナー(当時は、チャールズ・M・グリーンというペンネイムで冒険ものや怪盗ものをたくさん書いていました)ラホール・ホィットフィールド/エド・ライベックなどという常連作家が寄稿していました。

 ハメットが筆を絶った現在、まだ名前の残っているのはガードナーだけというわけですが、一つには日本の探偵小説界の本格物偏重主義が他の人達の紹介を怠ったからでもありましょう。

 それともう一つ見のがすことのできない事実は、探偵小説にかぎらずアメリカの文学が独自の確固とした自信と権威を持っていなかったことです。

 イギリス・フランスの有名な作家・批評家が認めた時はじめて、本国でも作家としての地位を確保できるという習慣が長いあいだ残っていたからなのです。

 ハメットも、アメリカで広く認められる前に、文豪アンドレ・ジイド(*6)の激賞によってはじめて有名になったという事実は、その動かしがたい証拠でしょう。

 そのまた受け売りの日本の探偵小説界だったのですから、行動派探偵小説の初期の時代に書かれた優れた短篇の多くが、埋もれてしまったという不運な結果になってしまったのです。

 しかしパルプ雑誌の読者達は、もっと早くから彼等のお気に入りの作家達の腕の確かさを知っていました。

 新しい型の探偵小説を創造し得る可能性を求め、探偵小説は事実にもとずいた生きたものでなければいけないという一つの見識を持って〈ブラックマスク〉(*7)誌は出発したのです。

 数あるパルプ誌の中から、ハメットをひろい上げ磨きをかけたのは、四代目の編集長ジョセフ・T・ショウ(*8)でした。

 アンソロジストとしても高名なJ・T・ショウは、〈ブラックマスク〉誌の作家群がアメリカ文学に新しい影響を与えたと、はっきり認めています。

 ハメットの数多い短篇は主にこの時代に書かれたものです。

 いま読んでも、社会風俗や人びとのものの考え方に大きな変化があるにもかかわらず、すこしも古くささを感じさせないのは、ハメットの人間を描写する力の確かさにあるのでしょう。

 ハメットの処女作『赤い収穫』(1929)それに次いで『ディン家の呪い』(*9)(29)/『マルタの鷹』(30)/『ガラスの鍵』(31)/などは前述のバーネットの『小さな帝王』と前後して登場しました。

 どうにもならない悪徳の存在をあるがままに認めた上で、無力な個人がどのように悪徳の世界と対決するかということに、ハメットをはじめとする多くの作家の狙いがかかっていたのです。

 内面描写を少なくし、行動と会話で、たたみかけるように事件を追って行くのです。

 

〝記者もの〟のはしり

 

 ハメットの蔭にかくれて、今日では忘れさられてしまった多くの作家達がいたことを、見逃してはならないと思います。

 ダシェル・ハメットという作家が突然とびだして行動派探偵小説を天才的に生みだしたのではけっしてないのです。

 彼等の作品に登場する人物が、天才というのとはおよそほど遠い凡人タイプのものが多かったように、作家達も天分や才能よりまず事実の冷静な観察者、精巧なカメラ・アイのような記録精神が特に重視されたのでした。

 アメリカ人は、西部の開拓魂と独立自尊の精神を誇りにしている国民だったので、自分達の選んだ警官や官吏に対して絶対に卑屈な態度はとりませんでした。

 

「名前を聞こう」おまわりが、いばってたずねた。

「誰様だっていいだろう」

 俺はピシッといった。

「盗人を逮捕して貰いに来たんだ、血統を教えに来たんじゃない」

 R・J・シェイ "Taking His Time"(1931)より

 

 こういった会話が強がりでなく、すらすらと出てくるのです。

 主人公自身の自意識がこれにつけ加えられ強がりを意識しはじめるのも、探偵という職業意識を強くもちはじめるのも、もう少し時代が後になってからのようです。

 

 死が近よってくるのは匂いでわかる。そして、そいつは今、匂っているようだ。一新聞が、私のやり方じゃ、街をきれいにする事はできっこない。

 

「葬式には来なくてもいいよ。とんでもないドンチャン騒ぎになるだろうからね。それに君には仕事があるのだから」

 

 広い視野と社会性を持った新聞記者もののはしりが、エド・ライベックやラホール・ホィットフィールドなどという作家のものにみられます。これは、R・ホィットフィールドの『内部の仕事』(*10)("Inside Job"1932)という作品の中で、正義派の編集長が暴力の圧力にもまけずに断固戦斗を開始した時のセリフです。

 彼に雇われた私立探偵、社内で対立する新聞の経営者、女秘書、死刑執行一時間前のギャングの情婦、タフな警官、市政を牛耳る悪徳ボス等々、最近の小説でおなじみの人物が次々に登場して来ます。

 正義派とみえた編集長が実はボスの手先きだったという意外性は、W・P・マッギバーン(*11)の『深夜緊急版』とまったく似かよった骨組みをしています。マッギバーンがそれをお手本にしたといったほうが当っているでしょう。

 

 次回は、〝警官もの〟の先駆者たちの紹介も兼ねながら、R・チャンドラーを中心に話を続ける予定です。

 

(続く)

 

 

*出典 『マンハント』1961年1月号

 

[校訂]

*1:ミステリィ → mysteryのカタカナ表記は出版社や雑誌によって異なるが(ミステリ、ミステリー)、〈マンハント〉では「ミステリィ」でほぼ統一されている。

*2:『小さな帝王』(仮題) → Little Caesar は2003年にやっと日本語版『リトル・シーザー』(小鷹信光訳)で刊行された。エドワード・G・ロビンソン主演の映画化名は『犯罪王リコ』

*3:ダシェル(ダシール)(現在の一般的表記)

*4:ペイパー・バック(ペイパーバック)

*5:ジョン・デイリ(キャロル・ジョン・デイリー)が〈ブラック・マスク〉の編集長になったことは一度もない。創刊は1922年4月号で、初代編集長はF・M・オズボーンという女性。

*6:アンドレ・ジイド(ジッド)

*7:ブラックマスク(ブラック・マスク)

*8:ジョセフ・T・ショウ(ジョゼフ・T・ショー)

*9:ディン(デイン)家の呪い

*10:『内部の仕事』(仮題) → 「内部の犯行」として『ブラック・マスクの世界4/忘れられたヒーローたち』(国書刊行会、1986年刊)に収録。

*11:W・P・マッギバーン(マッギヴァーン)

 

 

▶︎2 〈1932〜39〉孤独と抵抗のH・B魂

 

 

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