#1 始まりは西部劇だった

2 二挺拳銃

 

 ぼんやりと見え隠れしていたアメリカを、初めて自分の意志と足で追いはじめたのは、高校入学(一九五二年)のときだった。西武池袋線の江古田から闇市全盛のカスバのような池袋の町を経て赤羽線の板橋まで通う電車通学をはじめると同時に私の不良時代が到来したのである。

 とはいえ、マセていたのは心の中だけで、酒や軟派とは縁がなく、幼いまっさらな頭の中ではアメリカ西部の広大な天地とモノクロームの裏街とがごっちゃに渦巻いていた。

 西部劇映画と犯罪映画。この二つのジャンルを通じて知ったアメリカが、私の初めてのアメリカだった。

 ビデオどころかテレビもない時代。映画は歩いて映画館まで足を運んで見るしかなかった。乏しいコズカイと奨学金を切りつめ、放課後二本立て、三本立ての場末の映画館(池袋、高田馬場、新宿、渋谷、目黒、五反田)に夜遅くまで通いつめ、高校入学時までの優等生時代の遅れを必死にとりもどした。

 一九五二年に公開されたゲイリー・クーパーの『真昼の決闘』、ジョン・ウェイン、モンゴメリー・クリフトの『赤い河』、ジェーン・ラッセルの『ならず者』、翌年公開のアラン・ラッドの『シェーン』などはまちがいなくその年に見ている。それ以前に公開されていた戦後初公開の西部劇映画『拳銃の町』や『スポイラース』『死の谷』『オクラホマ・キッド』『地獄への道』『拳銃王』『落日の決闘』、『駅馬車』『荒野の決闘』『黄色いリボン』『リオ・グランデの砦』などのジョン・フォード映画の数々とも二番館、三番館で対面している。若い頃のゲイリー・クーパーやジョン・ウェインと初老にさしかかった彼らの姿が、ごっちゃにいりまじってスクリーンに現れた。それもこれもひっくるめての壮絶な西部劇映画摂取体験だった。このアメリカ映画狂いは二年間の浪人時代も飽くことなくつづく。

 浪人中の一九五六年末、十月から十二月にかけての三ヵ月間に東京周辺で公開、再公開された西部劇映画の総作品リストという私自信のマニアックなメモによると、この三ヵ月間の公開作品数は百十五本。三本立ての二番館、三番館がいかに隆盛だったかが推測できる。

 まさかこれを全部見たわけではなかろうが、五十年代末には、戦後それまでに公開されていた三百三十一本の西部劇映画(『西部劇大全集』、芳賀書店、一九七八年刊)の九十パーセント以上を見終えていた。私の脳裏に刷りこまれたこの無骨なアメリカ原体験は、いかにもがこうと剝がしとることはできない。

 ほぼ同時進行でモノクロームの世界に繰り広げられた犯罪映画の数々――『マルタの鷹』『キー・ラゴ』『暗黒街の巨頭』『赤い灯』『殺人者』『湖中の女』『三つ数えろ』『深夜の告白』『死の接吻』『裸の町』『幻の女』『武装市街』『その男を逃がすな』『脱出』『チャンピオン』『情無用の街』『罠』『白熱』『拾った女』『復讐は俺に任せろ』『明日なき男』『明日に別れの接吻を』『乱暴者』などなどが、のちに私自身の生業の道に深くかかわりあってきたことと比べて、西部劇映画原体験だけが、ぽっかりと切り離されてしまいこまれていることを不思議に思うことがある。

 一九六五年に初めてアメリカの土を踏んだ一ヵ月の旅で、だが私は一度もアメリカ西部には足を向けず、ひたすら大都市の裏街のえた匂いを追いつづけた。ハードボイルド小説を中心にした翻訳、評論活動にすでに手を染めていたのである。

 広大な天地というアメリカ体験の原点にやっと回帰しはじめたのは、この十年ぐらいのことだろうか。ジョン・フォードが愛したアリゾナの砂漠に第二の故郷を見いだし、一年の四分の一をその地で過ごし、都会の喧騒を極力避けつつ、アメリカのど田舎を白昼夢を見るごとく車でさすらいつづけている。

 ジョン・フォードの故郷である遠いアイルランドを毎年旅するようになって、彼の地の人々がなぜアメリカをめざしたのかも少しずつわかりかけてきた。

 不毛の土地があまりにも広すぎる国、というアメリカ観がいかに誤っていたかも知った。その不毛の広大さこそが、夢と自由をかきたて、もろもろの規律や因襲からの解放を約束してくれた地、それがアメリカだったのである。たとえそれが、滅びつつある大いなる幻影だったとしても。

 

 

*出典 ANA機内誌 翼の王国1998年2月号『初めてのアメリカ』

メモ: * は入力必須項目です