#1 始まりは西部劇だった

4 西部劇は終わる?

a ある西部小説が教えてくれたジャンル研究の奥の深さ

 

小鷹 ちょっと西部劇の話をさせてもらってもいいかな。

ーーもちろんです。ハードボイルドヒーロー像の淵源を西部開拓史の男たちに求める論調もありますから。

小鷹 そこなんだ。最近はそういうことを割に軽々しく喋る人がいるんだけど、私たちって、どれほど西部劇小説(ウェスタン)のことを知っているのだろうか、と自問すると、ちょっと背筋が寒くなるところがありはしないか? 日本ではウェスタンって数えるほどしか翻訳されていないでしょ。おそらく何も知らないに等しいのじゃないか。自戒もこめて言っているんだけど、ハードボイルド小説とウェスタンの関係なんてテーマは、きちんとウェスタンを読み込んでから立論すべきなんだよね。心して喋らないといけない。そういうことを言いたいのね。

ーー耳に痛い話です。

小鷹 これにはきっかけがあったんだ。

 ちょっと前に《キネマ旬報》からジョン・ウェインの『ラスト・シューティスト』のDVDが送られてきて、これをもとに西部劇の終焉を論じなさい、みたいな依頼があったわけ。こういうとき、記憶だけで書くのは簡単だけど、私はそういう性分じゃない。調べ魔の血がどうしても騒いじゃう。

 それで原作者のことを調べたら、グレンドン・スウォースアウトって人なの。まったく知らない作家だったんだけど、調べてみると、この原作は一九七五年に書かれていて、その年のホットスパー賞というのを受賞していたのが分かった。この賞は全米ウェスタン作家協会が最優秀作品に与えるもので、言ってみれば、アメリカ探偵作家クラブにおけるエドガー賞のようなものだね。しかも調べを進めると、この小説が西部小説のオールタイムベストテンに選ばれたりしている。これは大変だ、読まなきゃというので、さっそく注文した。

ーーさすが、実物検証派の先生です。

小鷹 これが読んだら、すごくハードボイルドなの。シューティストって言葉自体には偉そうな意味などなくて、ただ単純にお金をもらって人を撃つ職業ガンファイターってだけの言葉。ハードボイルドでしょ。そんな殺し屋が癌を宣告され、人生最後に彼をつけ狙う宿敵ガンマンを一カ所に集めて決闘を挑むという物語なんだ。

 映画では老境にさしかかっているジョン・ウェインが関係のない男に最後に背後から撃たれてみじめに死ぬんだけど、原作はもっとドライだというので、そこを読みたかった。

 それがね、本当に一切、感情を排して、しかもここまでやるかというくらいに惨めな死に方になっている。シューティストは何発も撃たれて、瀕死の状態になっている。そこに彼を診断した医師の息子がくる。シューティストは苦しいので、▼Kill me▲と言う。声が出る状態ではないから、唇の形で意図を察した青年は、頷いて、リボルバーを取り出す。彼はガンマンの両肩を股にはさんで動けないようにして、拳銃を首筋に押し当てて引き金を引く。でも、弾が出ないんだ。天井のファンが静かに回っているだけ。ガンマンの絶望感が伝わってくる。それで青年は、今度はガンマンが持っているレミントンを外し、もう一度両肩を股ではさんで、ガンマンの首筋にセットしなおし、引き金を引く。

 まったく感傷抜きの描写です。ガンマンが撃たれるところは、二回同じ文章を繰り返す。そのあたりのハードさに、ほとほと感心したんだ。

 それに文体面でも工夫している。

 三人称記述なんだけど、ところどころ、文頭にHe thought と書いて、コロン(:)をつける。そのあとに一人称で彼の思いを綴る。それでまた三人称に戻る。コロンをつける、つけないで、一人称叙述がもつ曖昧さが失せて、明確になってくるんだね。

ーーコロンなしで地の文を続けると、どうしても推定的な動詞、助動詞を使わないとうまくいかない感じがありますものね。

小鷹 そういう文体の実験もすごくうまく作動している。こういう小説がウェスタンにまだまだたくさん残っているはずで、そういうことをちゃんと知ってからじゃないと、西部小説とハードボイルド・ミステリの類比なんてことをやっちゃいけないと思うんだ。

 この小説、自分で訳したいし、研究も深めたい。でも、時間がないなあ。

 

*出典 『ハヤカワミステリマガジン』2016年1月号 聞き手=松坂健

 

b 「ラスト・シューティスト」(78)

 

 往年の西部劇映画最後の大物俳優、ジョン・ウェインが、一九七六年、六十九歳のときに、初顔合わせだったドン・シーゲル(監督)と組んで作った「ラスト・シューティスト」は、日本では三年間オクラにされたあと、当のウェインが胃癌との壮絶な戦いに敗れて世を去った折にやっと公開された遺作である。

 荒野で出くわした追いはぎを平然と一発で返り討ちにするプロローグが示す、ものごとの決着は銃でつけるというルールと末期癌で余命六週間という死の宣告をつきつけられた男が死に際で見せる勇気と見栄を淡々と謳いあげるこの映画を、かつて双葉十三郎さんは「偉大なスターとしての誇りを全うするためにあえて出演した作品、自分自身の手でフィルムに刻んだ墓碑銘である」と評した(『ぼくの採点表』☆☆☆★★★)。

 この双葉評はほとんどすべてを言いつくしているのだが、久しぶりに「ラスト・シューティスト」を再見して、二つ三つ新しいことに気づいたので、蛇足を加えさせていただくことにしよう。

 まずは原題名“The Shootist”について。

 この題名は高名な西部小説作家、グレンドン・スウォースアウト(一九九二年没)の七五年作の原作からとられたもの。同年の西部小説作家協会最優秀長篇賞、〈スパー(拍車)賞〉受賞作で、同協会が推す〈二十世紀の西部小説トップ10〉に、『ユタの流れ者』(ゼーン・グレイ)、『ホンドー』(ルイス・ラムーア)、『シェーン』(ジャック・シェイファー)、『すべての美しい馬』(『ザ・ロード』『血と暴力の国』『ブラッド・メリディアン』などのコーマック・マッカーシー)、短篇『リバティ・バランスを射った男』(ドロシー・ジョンソン)などと並んで選ばれた新古典である。

 〈shootist〉という言葉自体は南北戦争後から使われていたが、単純に「拳銃使い」(ライフルもふくめて)の意味で、「剣豪」のように美化したり、英雄視する含意はなく、原作では「殺し屋」と同義に用いられている。ついでに言えば、日本公開題名にお飾りと思い入れでつけ加えられた「ラスト」は明白な誤訳(誤認)だ。

 ちなみに原作の書評には、「ベッドで死を待つか、自殺するか、殺し屋は三つめの道を選んだ――自分自身の死刑執行人を選んだのである」となっている。映画では主人公は三人の男にみずから果し状をつきつけ、死出の旅の道連れにするのだが、「いっさいの感傷を排した文体」で語られているという対決シーン、映画とは違うらしい結末を確認するためだけにも原作を読まねばなるまい。また宿題が増えてしまった。

 次は、この映画に出てくる二つの石について。

 一つめの石は〈stepping-stone〉。昇降用や庭の〝飛び石〟、あるいは乗馬台(horse block)、比喩的には「途中下車地」「出世の手段」の意で用いられる。なぜこの石の話をもちだしたのか。なんと「ラスト・シューティスト」の冒頭、旧友である医師(ジェイムズ・スチュワートが演じた)を訪ねてカースン・シティ(ネバダ州)にやってきた主人公が初めて馬から降りるシーンに、この乗馬台が出てくるからだ。これの助けがないとうまく馬から降りられないくらい病んでおいぼれている主人公が、ローレン・バコール扮する下宿屋の女主人の前では、乗馬台があるのに、あえてそれに頼らずに馬から降りるので、思わずくすっと笑わされてしまった。とにかくこんな石を西部劇映画でこれまで見た記憶はない。原作には出てくるのだろうか。

 そして二つめの石は〈headstone〉。主人公があらかじめ石工に作らせる墓石(墓標)だ。この墓石には名前と生年月日、そして没年が刻まれているが、没年の月日はまだ刻まれていない。彼はこの日(自分の誕生日)はまだ死ぬ気がなかった、ということなのか。

 出世作「駅馬車」(39)以来の長い付き合いだったジョン・フォードは六一年作の「リバティ・バランスを射った男」で、西部劇映画のヒーローとしてのジョン・ウェインにすでに幕を降ろさせていた。死に顔は見せないが、彼はのっけから棺におさまっている役どころだった。愛する女を奪った友人の命を救うために決闘に割り込み、無法者を闇討ちにし、ヒーローになる機会も失って敗残者になる男。

 ジョン・ウェインはその男の無念を晴らすべく、「ラスト・シューティスト」に挑み、彼なりのみごとな終幕を飾った。だがもちろんそれは西部劇映画の終幕ではなかった。それ以降も何作もの西部劇大作を作ってきたクリント・イーストウッドが現代版西部劇「グラン・トリノ」(08)の結末で示した勇気はまさに「ラスト・シューティスト」への誇らしげなオマージュであったと思う。

 

 

*出典 キネマ旬報2015年3月上旬号

 

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